インドのOSHOアシュラムでの二人の出会い
その当時、指圧マッサージや、リフレクソロジーなどのボディワークをOSHOアシュラムで学んでいたDeva PremalにMitenは出会います。インドのスピリチュアルの教えを信じていたアーティストの両親のもとで育ったDeva Premalは音楽とマントラとともに育ちますが、実はMitenに出会うまでDeva Premalは自分の人生を歓迎してはいませんでした。
Deva Premal が自分のヒーリングボイスを見つけるまでの道
Devaの母親は音楽の先生で、ピアノ、ハープシコードを教えていたり、地元の教会の合唱団を率いていました。そして彼女の父はDevaが生まれたときにはミドルイーストのドラムに従事していたビジュアルアーティストでした。
さらにzen(禅)スピリチュアリティと東洋の哲学の教えを信じていた彼女の両親は彼女の生まれるずっと前からサンスクリット語でチャンティングのプラクティスを(マントラを唱えたり、歌うこと)を日課としていました。Devaが彼女の母のお腹の中にいたころ、彼女の父はガヤトリーマントラをおなかの中にいる彼女に毎日チャンティングしていました、
Devaが幼少期のころは、子守歌として夜寝る前に父は彼女にガヤトリーマントラを唱っていました。
Devaの子供時代は室内楽、ドラム・サークル ミュージック、マントラで満たされていましたが、そのころのDevaはマントラの中でもとてもパワフルなガヤトリーマントラをまだ詳しく知ることはありませんでした。というのも、Devaは彼女自身が成長するまで両親の音楽、彼らの教えの影響を喜ばしく思っていなかったからです。Devaは自分の両親は風変りな両親で、両親のことを良く思ってはいませんでした。
彼女が10歳だったころも、Devaはほかの子供たちのようにごく普通の子供でいたいと思っていました。
その後、Devaはキリスト教の教えに没頭し、バプタイズ(キリスト教の洗礼を受けること)を求めていきます。 彼女はそのころレコーダー、ピアノ、バイオリンを勉強し、音楽教育や演奏を重視する学校に通っていましたが、クラシック音楽の練習の厳しさに嫌気がさしていました。しかしながら、彼女はコミュティーを通して音楽を共に生み出していくいうことを楽しんでいた為、オーケストラと合唱団に没頭してきます。
そんな中でDevaが成長していく段階で唯一一つだけ両親に共感できることがありました。
それは母のOSHOの教えの発見でした。
17歳の時に人生の呼びかけ ”calling” を感じとったDevaは学校を17歳で辞め、禅の教えだけでなく、サンスクリット語のマントラ、スフィスダンス、ネィテブアメリカンダンス、アフリカンドラムなど、神聖な芸術表現に溢れている場所に自分自身を置くためにインドに移ります。
それがOSHOのアシュラムでした。
マントラをアシュラム生活の公式な部分として教えていなかったOSHOでしたが、OSHOはアシュラムにいた人すべてにどのような形式や伝統であっても、愛、平和、一体感、思いやりのユニークな表現を共有することを奨励していました。
Mitenはそのころ神聖な歌を歌うことによって、そのOSHOの教えに貢献していました。
彼の愛の歌への貢献は周りからとても受け入れられ、愛され、彼はまもなく世界の何千ものOSHOを愛する人たちにその歌を届けるために旅をすることになります。
アシュラムで出会った二人は最初、Devaはあくまでも彼のサポートするために歌います。彼とハーモナイズしたり、彼の音楽を支えているだけでした。
Deva自身こう言っています、私は人々の前で歌うことに自信がないと思っていたわ、恥ずかしいと思っていたの。
そんな彼女にイギリスでのOSHOミュージックフェスティバルで転機が訪れます。
次、最終編に続きます。