90歳のアルフォントおじいちゃんはとても活発で、90歳というのに毎日車を運転して買い物にいったり、犬の散歩、隣人のお引越しというと、よーし、一緒に家具運んでやるか、と重たい家具を担いで運ぶパワフルなおじいちゃんです。
背中もピーンと張っていて、どう見ても私には80歳ぐらいにしか見えないのです。
そんなおじいちゃんですが、頭も本当に冴えていて私にいろんな話をしてくれます。
そのおじいちゃんの話の中で、私にとって衝撃的なおじいちゃんの過去の話がありました。
ベルギー人のおじいちゃんがコンゴ共和国に20年以上いたときの話です。
私が初めてアルフォントおじいちゃんに3年前にお会いした時に言われました。
「そうか、君は日本から来たのか、よくベルギーに来たね。いつか僕が生きている間に話したいことがあるよ。今だから話せることだからね。まだ、おばあちゃんにも話していない話だ。」
おばあちゃんは何なのよ、という様子でおじいちゃんを見ます。
ベルギーの歴史の話に触れますが、ベルギーに住んでいる方ならご存知のようにベルギー王国はコンゴ共和国、旧ザイールを長いこと植民地化していた為、歴史的にコンゴ共和国ととても深い関係があります。
おじいちゃんも含め、その当時多くのベルギー人がコンゴ共和国で一攫千金を狙って、コンゴ共和国でウラン炭鉱で稼ぎにいっていました。
そして、話は始まります。
おじいちゃんの話を聞くためにテーブルを囲む私、シュシュラパ、そしておばあちゃん。シュシュらパはあー、また、話が始まったという感じでつまらなそうな顔をしていましたが、私はどきどきしていました。
おじいちゃんのコンゴ行きの全てはある新聞の記事からはじまります。
アルフォントおじいちゃんは30歳を過ぎたある日、新聞にベルギー領コンゴ共和国でウラン発掘労働者募集という記事をみつけ、コンゴ共和国へ向かったそうです。
その当時、多くのベルギー人がお給料がとてもいいという理由でコンゴ共和国に稼ぎに行っていました。
シンコロブエ鉱山といわれるコンゴ共和国のウラン鉱山は1960年代までは世界有数のウラン鉱山だった、とおじいちゃんは語ります。
コンゴでの生活はどうだったの?と私が聞くと、おじいちゃんはこう答えました。
「あぁ、それはそれは良い生活だったよ。何しろおじいちゃんたちはウラン鉱山を発掘してはいなかったからね、おじいちゃんがやっていたことはコンゴの人たちを使ってウラン鉱山の発掘を指示する役目だった。住んでいるところは高級マンションだったし、毎日食事はレストランだったよ。もちろんベルギー人が好みのものばかりだった。おじいちゃんは何もわからずにコンゴに行ったが、とてもいい暮らしだったよ。ただ、上から指示されることをしていただけだからね。」
「ただ。。」
「ただ?」
「ウラン鉱山で働いていた仲間たちが後に次々と死んでいったよ。おじいちゃんも見てわかるようにがんになった。今も生きているけどね。」
ウランのせいで、若くしてがんや、免疫不全、慢性疲労など様々な体調不良を訴え早くして亡くなる人が多かったそうです。もちろんコンゴ人も含めて。
おじいちゃんも皮膚がんに3回かかり、手術を何度もしています。その皮膚移植のせいで頭のてっぺんの皮膚が何か所かへこんでいます。
「ここからがおじいちゃんの話したいことだよ。」 と続けます。
「おじいちゃんたちは何でウラン鉱山を発掘していたのか知らされることはなかった。ウランが必要な国に輸出しているということは周りは知っていたよ。それだけだった。」
「今は何の為だったかおじいちゃん知っているの?」
と私は聞いた。
「知っているよ。今だからだ。」
とおじいちゃんは答えた。
「あの計画は当時、幹部のトップシークレットだった。それが後になって分かって、それはそれは大変な事件だったよ。あれは死の計画だよ。おじいちゃんたちがどんなに驚いたことか。」
私は息を飲んだ。
「マンハッタン計画だよ。」
マンハッタン計画・・・まさか、あの?
それが一体ベルギーとどういう関係が?
子供の時から世界史が好きだった私はマンハッタン計画について読んだことがあるのを思い出しました。
マンハッタン計画 (Manhattan Project)とは、第二次世界大戦中、ナチスドイツなどの原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾を世界ではじめて開発したプロジェクトのこと。
科学者、技術者を総動員した計画であった。その計画に参加した人々は数知れずと言われています。
3年という月日をかけ5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日、世界で初めて原爆実験を実施する。
その同年、あの広島と長崎に原爆を落とすという計画を成功させたマンハッタン計画。
合計数十万人が犠牲になった。
当時、アメリカは国内のウラン鉱床を約100万トン分しか見つけられていなかったので需要量の90%をベルギー領コンゴに頼っていました。
そう、コンゴのウラン鉱山からあの広島、長崎の原爆の原料を買っていたのです。
もちろんその当時のベルギー人たちはそれを知らされることは決してありませんでした。
なぜなら、マンハッタン計画は当時アメリカ、イギリス、カナダの最高レベルの機密プロジェクトだったからです。
彼らは主にドイツを中心とするドイツ同盟国(日本もドイツのドイツの同盟国でした。)にアメリカの核開発技術の情報が漏れてしまうのを恐れていたからです。
私もその後、この計画についての英語の書物などを読んでみましたが、このマンハッタン計画にかかわった人々は60万人以上と言われていますが、この計画の全て知っていたひとは当時たったの50~60人前後だったと言われています。
そしてその秘密を洩らそうとした人は牢獄に入れられる恐怖にさらされていました。トップレベルのセキュリティー制度がこの計画には組み込まれていたため、この計画に深くかかわった科学者たちでさえもその計画が一体何の為だったか決して知らされることもなく、知るすべもなかったという超極秘プロジェクトがマンハッタン計画。
おじいちゃんがその当時の真実を知ることがなかったのは十分に理解できます。
おじいちゃんはあのコンゴのウラン鉱山の発掘があのマンハッタン計画の為だったというのは、だいぶ後に知ったそうです。
その時の驚きとショックは相当なものだったそうで、おばあちゃんにも話せていなかったそうです。
私はこうおじいちゃんに言いました。
「私たちはこの世界のことをよく知っていると思っているかもしれないけれど、本当はこの世界のことの1パーセントも知らないのかもしれないね。この世界には私たちの知らないシステムがたくさんあるんだねきっと。
この世界を動かしている人たちは私たちの知らないところで今でもとんでもない計画をしているのかもしれないね。」
何も知らされなかった人々、、亡くなっていったコンゴの人たち・・複雑な気持ちになりました。
この話はわたしにとって衝撃的でした。おじいちゃんからの実話だったからです。
マンハッタン計画はとても悲しい形で終了したけれど、それでも世界のシステムはそう簡単には変わらない、それだからこそ、私たちはせめて自分たちが消費するものに意識を向ける必要がある、と感じました。
現在でも私たちは戦争や、世界の問題に直接関わっていないと思っているかもしれないけれど、間接的に実は関わっている。ファストファッションや、ローコストの物を買える背景には児童労働、貧しい国の奴隷問題などが関わっています。
実際、私が子供のころのようにメイドインジャパンの製品を買えることはほぼなくなった。ファストファッションの生産地をみると、パキスタン、ベトナム、中国、インド・・・ 私たちの好きなチョコレートのカカオの多くはアフリカから。毎年世界の先進国の為のバレンタインデーの為にアフリカでたくさんの子供たちが毎年誘拐され、強制労働させられている事実に私たちが関わっていないと私たちははっきりと断言できるのでしょうか?
もうすぐやってくるバレンタインデー。
そもそもバレンタインデーになぜチョコレートを買い合うのか。わたしは子供のころ、そんなことは疑問にも思ってもいませんでいた。
ただ、みんなが買うから、私も買っていました。
2009年にカカオの事実を知ってから、私はバレンタインデーをチョコレートで祝うことはなくなり、チョコレートを買うときは生産者の顔が分かる認定フェアトレードのチョコレートを購入するようにできる限り努めています。
バレンタインデーだからこそ、フェアトレードのものや、世界の子供たちを気遣えるプレゼントができるといいなぁと思います。
たった一人の力なんて・・・って思うこともあるけれど、そのたった一人から、始まるんだと思います。
その小さな一滴、一滴が大河に広がっていくと言われているように・・・。
最近は世界でもチョコレートフリーバレンタインデーが広まっています。
おじいちゃんの話も聞いてから、未来の子供たちに明るい将来を残すために私たちがいまできることは何かと、再び考えさせられました。
私たちでなく、世界の子供たちが少しでも安全に過ごせていますように。
祈りを込めて。